エドマンド・デュラック(Edmund Dulac)

WIKIPEDIAより。

      

エドマンド・デュラック(Edmund Dulac, 本名エドモン・デュラック Edmond Dulac, 1882年 - 1953年)は、いわゆる「挿絵の黄金時代」(20世紀の第1四半期頃)にイギリスで活動したフランス出身の挿絵画家。

フランス、トゥールーズに生まれる。彼はまずトゥールーズ大学で法律を学ぶが、法律に嫌気が差してからはエコール・デ・ボザールの美術クラスにフルタイムで通うようになった。1903年には奨学金を得てパリのアカデミー・ジュリアンに通うも、パリやこの学校に幻滅を感じ3週間でトゥールーズに帰郷している。1904年、挿絵の仕事をするためにロンドンに渡り、以後生涯をロンドンで過ごした。

22歳のデュラックは、J・M・デント社から出版されるブロンテ姉妹 の全集本の挿絵画家に抜擢された。1907年にはハイネマン社に移ったアーサー・ラッカムの後任としてホッダー・アンド・スタウトン社の挿絵画家となり、年に一冊挿絵本が出版される一方、レスター画廊で原画が展示された。 このような形で出版された彼の挿絵本には『アラビアン・ナイト』(1907年)、『テンペスト』(1908年)、『ルバイヤート』(1909年)、『眠り姫、その他のお話』(1910年)、『アンデルセン童話集』(1911年)、エドガー・アラン・ポーの『鐘、その他の詩』(1912年)などがある。第一次世界大戦中、デュラックは『フランス赤十字社のためのエドマンド・デュラックの絵本』(1915年)などで無償で仕事をし、本の収益を戦争の義捐金に当てた。

戦争後は豪華な挿絵本は稀なものになり、代わりに新聞の風刺漫画、肖像画、舞台衣装、セット・デザイン、蔵書票、チョコレート・ボックス、メダルなど、幅広い分野で活動を行った。晩年はイギリスにおける郵便切手や預金通帳のデザインの第一人者となっており、第二次世界大戦中はド・ゴール自らの依頼によって自由フランスの紙幣、郵便切手のすべてをデザインした。

外部リンク[編集]
年齢事実上博物館のの精神: エドマンドDulacのコレクション-伝記および他の資源に加えるエドマンドDulac著340の実例上の…、:: 実例は下記のものを含んでいる出版物によって整理される: "アラビアンナイトからの物語" (1907年); "暴風雨" (1908年); "オマールKhayyamのRubaiyat " (1909年); "ハンズAndersenからの物語" (1911年); "妖精との私の日" (1911年); "鐘および他の詩" (1912年); " Badoura王女" (1913年); " Sindbadアラビアンナイトからの船員そして他の物語" (1914年); "フランスの赤十字のためのエドマンドDulac絵本"の(1915年); "夢の夢みる人" (1915年); "エドマンドDulac妖精本"の(1916年); "ライトの泥棒" (1916年); " Tanglewood物語"の(1918年); "真珠の王国" (1920年); "妖精の花輪" (1928年); "愛の神そして人間" (1935年); "星の娘" (1939年); "キューピッドおよび精神の結婚" (1951年); そして" Comusの仮面劇" (1954年)。 出版された実例および絵画の付加的な選択はまた示されている。